イタリア軍


イタリア軍はなぜ弱いのか?
それは愚問である。
旨い物を食い、好い女と寝る。 これ以上の幸せはあるのだろうか?
人生は謳歌するもんだよ

イタリア軍の主な戦歴

紀元前510年クロトーネ人 当時イタリア北東にあったシバリスという国で
騎馬隊の馬を勝利のパレードのために
音楽で躍らせるよう調教した。

ところが肝心の戦いの時、相手が音楽をはじめてしまった。
大混乱の末に大敗北。
1860年5月ブルボン軍5月11日、ガリバルディは1089人の北イタリア都市生活者からなるアルプス軽歩兵軍団(通称千人隊)
を率いてシチリア遠征に出発した。
5月15日、パレルモを目指して進軍していた千人隊はカタラフィーミにてブルボン軍と会戦することとなった。
赤シャツ隊とも呼ばれるこの部隊の中で、実際に赤シャツを着ていた人間は約50人と言われ、軍務経験者はジェノヴァ憲兵隊35人のみ。
対するブルボン軍は二万の総兵力のうち3000をカタラフィーミに派遣した。
当初、実戦経験の差、装備の質、兵力の点でブルボン軍の勝利はゆるぎないものだと思われていた。
実際に戦闘は苛烈を極め、千人隊は退却を考慮したが、
ガリバルディの「ここで統一イタリアが誕生するか、さもなければ死滅だ!」
との叫びに奮起され、遂に六時間にも渡る死闘を制し、ブルボン軍は撤退していった。
ほどなくしてパレルモは攻略され、またナポリも既に時間の問題となったのであった。
1866年6月オーストリア 20万のイタリア軍は、アルプレヒト大公率いるオーストリア軍7万5千にクストッツァで大敗
1866年7月オーストリア・ハンガリーリッサ島攻略
1度目の出撃命令の時は洋上で長談義して終了。
2度目の出撃命令の時はリッサ島を遊覧周遊して終了。
さすがに国内世論が沸騰して非難されたときの司令官の言い分は
「未だ我が艦隊は海戦に耐えず!」
3度目の出撃命令の時に渋々ながら戦いを始める
オーストリア軍は2000人で88門の小型砲を備えていたものの、食料や弾薬は不足がちで
「イタリアでも勝てる」と思われていた。
ところが、28隻が4つに分れて砲撃を加えたものの、攻勢は遠慮がち。
逆に島側の砲撃にあって引き上げる、調子にのって近づき過ぎたところで
反撃をくらって撤退し、その間に援軍を呼ばれる。
最終的には、イタリア艦隊は32隻。上陸用兵力は26,000人
1866年7月オーストリア・ハンガリーリッサ沖海戦
敵方のオーストリア海軍の大砲は全て時代遅れの前装式。イタリアは大砲の性能、装甲艦の数、
艦隊の全艦数でも相手を圧倒しながら、時代遅れの衝角戦術(体当たり戦術)の前に敗れる。
開戦直前に、ペルサノ提督が装甲艦「イタリア」から突然「アッフォンダトール」に乗り移り、
後続艦が停止。それより前の艦はそのまま前進。
真っ二つになったところでオーストリア艦隊が木造艦も含めて突進。
オーストリア側は、木造艦も炎上しながら戦ったが、イタリア側は傍観。
オーストリア側の沈没は0。死者は178人。
イタリア側の沈没は3。死者は約800人。
海軍のスペックでは大幅にオーストリアを上回っていたはずなのに・・・
なお、衝角戦術が有効に機能したのはこの海戦が最後。
「鉄甲艦を沈めるには体当たりが一番」という誤った戦訓を世界にばら撒く
1895年エチオピアアドワの戦い
機関銃まで装備しながら、なぜか原住民軍の前に圧倒的大敗。
この直前に行われたアンバ・アラギの戦いでもイタリア軍が惨敗していることはあまり
知られていない。つまり、イタリアは原住民相手になぜか2連敗
原住民相手に6000人の死者を出した大敗であった。
1896年3月エチオピアエチオピアのアッパ=ガリマで大敗。エチオピア軍戦死者1000人に対し、イタリア軍は5000人
近代において白人が有色人種に負けた稀な戦争
1917年10〜11月ドイツ・オーストリア連合カポレットでドイツ・オーストリア連合軍に大敗。3週間で150kmを敗走。
独墺軍の死傷者2万3千に対し、イタリア軍は死者1万、負傷者2万、捕虜29万3千、脱走者30万。
1918年10〜11月オーストリア休戦交渉中にピアブ川で攻勢に出るがまったく歯が立たない。
11月4日『休戦発効後』オーストリア軍を攻撃して30万の捕虜を獲得。
1922年エチオピア侵略飛行機、戦車を本格的に投入して侵略するも、なぜか戦争の初期には敗北を喫し、
全軍が包囲されたり、戦線が崩壊したりしている。そのたびにイタリアの窮地を救った
のが毒ガス。追い込まれるたびに毒ガスで形勢を逆転させる。以後、毒ガス散布に次ぐ
毒ガス散布でなんとか強引に勝つ。ちなみにエチオピアの装備は小銃のみで、旧式マス
ケット銃も現役、槍まで現役というものでした。
また、役人を寄せ集めただけの軍団にも負けそうになった。
1935年10月エチオピア進行当初はエチオピア軍の後退戦術もあり順調に進んだが、アジスアベバから進軍したラム・イムルの軍に
包囲され、デンベグイナ峠を守る黒シャツ党員は殆どの火砲と戦車を失って潰走、マカレの補給基地まで
押し戻され、イタリア軍右翼は総崩れ、左翼の補給基地を脅かされ、指揮官であるバドリオは全滅の恐怖に
襲われていた。
ここでイタリア軍は毒ガスを使用し形勢を逆転。以降戦闘終了まで毒ガスを使用し続ける。
1937年3月スペイン グアダラハラよりマドリードを目指してイタリア軍4個師団が進軍するが、多数の投降者を出しグアダラハラより敗走
1940年6月イギリス・フランスイタリアが英仏に宣戦布告する。単にヒトラーの戦果に嫉妬して無計画に参戦したため、戦争に必要な物資の
備蓄もほとんどなく、イタリア船籍の船舶も世界中に散らばっており、戦争開始間もないうちにほとんどが
拿捕されてしまう。
また何の作戦計画も考えていなかったので、自分から宣戦したにもかかわらず、10日間ほどは何の軍事行動も
取れなかった。
奇襲的に攻め込んだにも関わらず、たったの2個師団相手に追い返されたという
1940年6月フランスドイツ軍に蹂躙され降伏寸前のフランスに侵攻するも、フランス軍の反撃を受け崩壊寸前、フランスの降伏が
もう少し遅ければ、イタリア領内に侵攻されるところだった。
1940年10月ギリシアイタリア軍21個師団はギリシアに侵攻するが、ギリシア軍13個師団に反撃されアルバニアに押し戻され崩壊寸前。
ギリシアは親独的中立を保っていたが、これで連合国側に立つことになる。
1940年12月エジプトエジプトに侵攻したイタリア軍7個師団は、イギリス軍2個師団の反撃を受け敗走。13万人が捕虜となり、キレナイカを
失う。
イタリアのバルカンと北アフリカの失態を救援するため、ドイツはバルカンを制圧しアフリカ軍団を派遣する。
バルカン制圧のためにバルバロッサ作戦が1ヶ月遅れ、北アフリカ作戦のため7000台のトラックが派遣された
(東部戦線全体でも1万4000台しかなかった)。このことが東部戦線に大きく影響することになる。
1940年10月イギリスイギリス海軍の旧式複葉機ソードフィッシュ21機は、タラント湾のイタリア艦隊を攻撃。
戦艦コンテ・ディ・カブールは大破着底、戦艦リットリオ、カイオ・デュリオ中破。イギリスの損害は2機のみ。
1941年3月イギリスマタパン岬沖でイタリア・イギリス艦隊が戦闘。イタリアは重巡3隻を失うが、イギリスの損害は皆無。
1942年イギリス25万の兵力で英国軍3万5千と戦闘、チュニジアで降伏した。
1942年12月ソ連ドン河畔でイタリア第8軍がソ連軍の攻撃をうけ、即座にすべての兵器を放棄して遁走する。
11月に同じように攻撃を受けた装備劣悪なルーマニア軍は、数日間は善戦して持ち堪えた。また、10月にソ連軍が
終結しているのを見てこちらから先制攻撃をかけることを提案したが補給上の問題でドイツ軍から拒否されている。
イタリア軍からそのような建設的な意見が出されることはなかった。
1986年 リビア 組織的に飛行機が運用されたのはこの戦争が歴史上最初と言われる。でも、なぜか
緒戦は敗北の連続。戦車を投入するも、教師出身のオマル・ムクタール率いるゲリ
ラ(ほとんど遊牧民部隊)の前になぜか撃破されていたりする。毒ガスを使い、住民
を強制収容所に隔離し、鉄条網で国境を封鎖してなんとか勝った。
1991年 湾岸戦争 トーネードが十数機出撃、ぶっつけ本番の空中給油に一機を残して全て失敗、
本国に帰還。残りの一機はイラク軍の軍事施設を攻撃中に撃墜されパイロットは捕虜になった。

イタリア軍逸話

  • イタリアの軍服はオシャレ
  • 紅茶の茶葉3000万トンを世界中から買いあさった
  • ジローラモ・パンツェッタ氏曰く「イタリアは10%の真面目な国民で支えられている」
  • 英軍捕虜に機をハイジャックされたことがある

イタリア軍の塹壕にて

北アフリカ戦線で、ロンメルがイタリア軍の塹壕を訪れた。
と、そのとき、連合軍の砲撃が始まった。
イタリア軍の兵士は「おおマリア様!」と言って地面にひれ伏した。
ロンメルはイタリア軍の指揮官にこう言った。
「お祈りを止めさせて、反撃させなさい。言うことはそれだけです。」

捕虜の扱い

北アフリカで、イギリス軍将校のところに銃を持ったイタリア兵の一群が降伏するために
近づいて来た。
しかし、戦利品を漁るのに忙しいイギリス将校が無視していたので、そのそばに銃を
投げ捨てると「うるさい!、あっちに行け!」と怒鳴られた。
仕方なく、捕虜にしてくれるイギリス兵を探すため、銃を拾い上げるとまたとぼとぼと
歩いていった。

拷問を受けたイタリア人

イタリア人の「弱さ」は処世術のひとつでもある。
第二次世界大戦後、ユーゴパルチザンの捕虜になったドイツ兵はあくまで頑固で
拷問にも屈することなくセルビア人の怒りをかったが、イタリア兵はすぐに泣いて
許しを請うので拷問がとまったという話だ。

イタリアの地域ごと強弱はあるのか?

第一次大戦では、各地方から徴兵した兵隊を均等に各部隊に割り振っていたが、
第一次大戦後に、地域別の編成に改めた。

しかし、ヘタレっぷりに地域差はなかった。

脱走兵

ケニア山はアフリカで2番目に高い山であるが、
第二次世界大戦の最中、三人のイタリア兵がそのピークの一つレナーナ(4985m)に挑み初登頂に成功した。
と言ってもこれは軍務でもなんでもなかった。

捕虜収容所から毎日、その山を見ているたらどうしても登りたくなり、山を眺めてルートを検討し、
半年がかりで食料をかき集め、物資をちょろまかして登山道具を作成、
ついに脱走して80キロ近い道のりを踏破し、登頂したのだという。

なお彼等は下山後堂々と収容所に帰還。
呆れかえったイギリス軍によって数週間の禁固刑を言い渡されたそうな。

こっちが眠けりゃ向こうも眠い

イタリア軍は夜になると、「こっちが眠ければ相手も眠い。
だから攻めてこないだろう」などと言って見張りも立てず眠りこけた挙句に奇襲を喰らうことがあった

国や民族という意識が無い

あるイタリア軍の兵士が夜中に目を覚ますと小隊の隊長がどこかに行こうとした。
部下の兵士はどこに行くのかと訊ねた。
すると隊長はこう答える。

「俺は国のためには命をかけない。俺は奴隷じゃないからな」

荷物を整えながらその隊長は歯をキラリと光らせ、

「俺が命を賭けるときは惚れた女を守るときだけだ!」

と、笑顔でさわやかに言うと戦線から離脱していった。
部下は引きとめた。

「隊長!待ってください!」

そして振り向いた隊長に部下はこう言った。

「俺も一緒に行きます!」と。

かくして朝になり、他の隊員が目を覚ますと隊員の数は減っていた。
日が経つに連れ、一人減り、二人減り・・・・
そして、イギリス兵と戦う前にその小隊は姿を消した・・・・

政体は変わっても、やることは変わらないイタリア軍

1943年9月12日午後2時スコルツェニー指揮下の武装SS及び空軍の混成降下猟兵部隊が、
グライダー12機に搭乗、山荘前面の僅かな平地に強行着陸(着陸成功8機)・・・
警備のカラビニエリ部隊は簡単に降伏。山荘内からムッソリーニを無事救出し、
距離離着陸が可能なフィーゼラーシュトルヒ連絡機でムッソリーニとスコルツェニーは脱出、
残った独兵たちは悠々とケーブルカーで下山した。

イタリア最強の兵は主婦

WWUの時に、イタリアで強かったのは軍隊の 人間でもなければ、ファッショ党の人間でもなく
一般のおかみさんであった。
ナポリに侵略してきたドイツ軍が狭い路地を進行している上から、
鉢植え、ソファー 、クローゼットなどを落っことして、ぼこぼこにした挙句、 近隣の反独パルチザンと共同でドイツ軍を休戦・撤退に追い込んだ

英国の武装漁船とのガチンコ対決

潜水艦「ガリレオ・ガリレイ」、偉大なる科学者の名前をつけられた軍艦である。
英海軍の武装漁船にガチンコ勝負を挑まれて敗北、なんと捕獲されてしまった。
漁船で真っ向から戦いを挑み、ろくな照準器もないのに次々と命中弾を浴びせて、
倒してしまったロイヤルネーヴィーも凄いが、艦長たちが死傷したからって、
あっさりシーツを振って降伏してしまった。

イタリア人は戦場に於ては必ずしも勇者ではない、巧妙なる外交家である

イタリア人意識が薄い

イタリア人は自分の生まれた都市以外を他国みたいなものだと思っている
また何百年もの間、都市同士の戦争を行っており。都市間の仲が悪い
民族国家でも無いので、国民が一致団結して戦争をしようという意識が薄いのではないのだろうか?

イタリア的戦争学

1.勝てっこない相手=絶対に戦争にはならない
2.強敵及び同格の相手=弱るのを慎重に待ってから開戦する→惨敗に至る
3.格下の相手=好んで開戦する→なぜか惨敗に至る
4.負けることが考えられない相手=好んで開戦する→苦戦は免れない

戦争準備より外貨

外貨稼ぎのために自国空軍にも配備が済んでいない機体を
せっせと輸出していたという・・・

イタリア軍が米国軍の攻勢を食い止めている?

米国軍がイタリア本土に進行、イタリア軍と対峙していた
しかし敗戦濃厚のイタリア軍に戦意は無く
米国軍もその気配を感じ、攻撃を控えていたという
ドイツ軍の観測機が通りかかったときは
ドイツ軍に来られたらたまらないと
ちゃんと戦っている風を装って
米国軍へ発砲していた
米国軍もやる気無く反撃
その戦いを観測機はこう見ていた
「すごい!イタリア軍が米軍の攻勢を食い止めている」

その後にドイツ軍が救援に表れ、激戦になってしまったという

神のご加護

イタリア軍は、火薬を常備していたのだっが適切な保管場所が見つからない
教会なら敵軍隊の爆撃はなく、神のご加護があり
安全であろうと100tを越える火薬を町の中央にある聖ナザロ教会に運び込んだ。

"しかし、教会の尖塔に見事に落雷。町は大爆発で瞬時に1/5が吹き飛ばされたそうです。 "

ナポリの泥棒は世界一

イタリアのナポリで軍艦が盗まれた
中東戦争真っ最中には、乗っていた戦車を盗まれたという

飛行機に関するこだわり

イタリア空軍は全期間において計器飛行の訓練を
全くしていなかったらしい。
ある戦闘飛行機の初期型は密閉式風防であったが。現場からの「風が感じられない」
という苦情で開放式に戻した。
そのために、折角の高速戦闘機が台無し。

戦争をしていない時のイタリア軍は強い

ムッソリーニ失脚後のローマは、ドイツ軍に占領された
スペイン広場で自転車に乗っていた男が、ドイツ兵をすれ違いざまに
ナイフで一撃して逃走
このような事が数回あり、ローマでは「二輪車禁止」令が布告された

すると、ローマの自転車販売店では、すかさず二輪車を三輪車に改造する
商売を始め、市民は警備のドイツ軍の前をこれ見よがしに三輪車を乗り 回したと言う。

また、ドイツ軍は占領軍使用のため、市民の自動車を徴発した。
自動車を取られた女優のアンナ・マニャーニは怒って、農家の使う大八車を
持ち出し、ドイツ兵に「そら、どいたどいた!」と怒鳴りながら、ヴィア・デル・
コルソなどの目抜き通りを突っ走ったそうな。

個人の勇気や才覚で闘いに望むときのイタリア人は強い

 ソマリアに国連軍が派遣されていた時、ちょっとした感情の行き違いからアメリカ
海兵隊とイタリア軍の部隊が戦闘になってしまったことがあり(イタリア軍が検問から
解放したソマリア人をアメリカ海兵隊が連行しようとして揉め事になり、隙を見て逃げ
ようとしたソマリア人をアメリカ兵が射殺。それをきっかけに撃ち合いに)、その時イタ
リア兵は逃亡も降参もせず、上層部が事態を収拾した時にはアメリカ海兵隊を圧倒
していた(被害は双方ほぼ同数)。

統一時にイタリアの半分を征服したのは正規軍ではなく、ガリバルディの義勇軍

知謀が立つイタリア兵

北アフリカで、ドイツ軍はイギリスの敗残兵狩りをしていたが、イギリス兵は
原住民の集落に隠れてなかなか発見できない。ドイツ軍は集落の中を探し回ったが、
さっぱり見つからない。

イタリア軍は、現地の顔役のところに行ってこう言った。
「イギリス兵の居場所を教えてくれたら砂糖5袋と小麦粉5袋を進呈するよ」

翌日、イギリス兵は全員捕まったそうである

相手の進行を止めるために大宴会

ガリバルディがローマ解放のために進軍を開始しようとした時の話。
ローマ解放が自分達の勢力にとって悪影響を与えると判断したイタリアの保守派

マフィア”シチリアの伯父”のドン達は彼の侵攻を遅らせるために一計を案じた。
ガリバルディと彼の軍隊を招待し、大宴会を催したのである。
メユーは前菜の燻製ハムから始まってカジキマグロのアッジョッタ風、メルルーサ

のメッシーナ風、ノロ鹿のすね肉、子羊の丸焼き、トリュフ詰めニワトリ等々、デザ
ートのドーナツや焼きリンゴにいたるまで十二皿が出る非常に豪華なものであり、
しかもこれが一週間の間ぶっ続けで続けられた。
これに目がくらんで足止めをされたガリバルディは政府軍に反撃の準備を整える
時間を与えてしまって苦戦、結局和解をせざるを得なかった。

ジェット燃料を管理する部門が無い

1999年10月、イタリアの空の玄関ローマ空港で、ジェット燃料の備蓄が0になると言う
出来事があった。
当然、燃料補給する予定だった、航空機は、飛び立てず、ローマの空は大混乱で、原
因は、燃料の備蓄管理をする部門が無かったかららしい。

其れまでは、燃料の備蓄が、少なくなって来ていることに気が付いた部門が、燃料を
発注してきていたと言う話しで、その時は、気が付いた人はいても、「まあ、誰かがち
ゃんとやっているだろう。」「誰かが、やっていたら、二重発注になるし・・・」で、誰も発
注していなかったらしい。

ダイバーズウオッチ

イタリア海軍はダイバー部隊を創設しようとしていた
防水の時計を作ろうと精密機械メーカーにダイバー用の防水腕時計の
開発、製造を依頼した。

その結果出来た時計は秒針も回転ベゼルも無いただの馬鹿でかい時計だった
しかも、他メーカーに製造を丸投げしている

自分の生まれた都市以外は他国

イタリアの祭りでは何百年も仲の悪い町内会が祭りのやり方などで殴り合いの喧嘩
になることがよくありそれも集団で市街戦並で警察が喧嘩をやめさせるため
威嚇射撃をするまでの規模になる

アメリカ海兵隊と銃撃戦

自分たちの管理区域に逃げてきた難民の扱いを巡って、
追ってきた米海兵隊と銃撃戦を行う

ワイン

イタリアのレーションのワインのパッケージには「戦闘中に一気のみすれば
泥酔して戦闘が怖くなくなるよ。」と書いてあった。
また軍隊の備蓄は、弾薬よりもワインの方が多かったという

捕虜となったイタリア人

オーストラリアで日独伊の三カ国の捕虜がいた
ドイツ人は集団で穴を掘り収容所から脱走しようと試みた
日本人は集団で自決をしてしまった。

イタリア人の捕虜は収容所の門が必要ないくらいおとなしく
近くの女の子をナンパして、出来てしまった人もいたという

砂漠で救援要請

イタリア軍部隊から救援要請があったのでドイツ軍中隊が戦力を割いて救援に向かった。
当のイタリア軍は砂漠で、貴重な水を使ってパスタを茹でていた。

グルメなイタリア人

戦場でも美味しいものを食べることができないだろうか・・・
その工夫が、フリーズドライ製法をが発明された。連合国側は非常に驚いたという

捕虜にもフルコース

イギリス軍兵士がイタリア軍に捕まり、捕虜になった。

夜となり、牢獄に入れられた彼のもとに夕食が届けられたが、これが前菜から始まって、
パスタに肉料理、食後の果物にワインまで付く不自然なまでに豪華な食事。
補給が絶たれろくな食事をしていなかったパイロットは思った。
「これが俗にいう最後の晩餐、ってやつか…」

明日は銃殺されるんだ…と思ってまんじりもせずに迎えた翌朝、彼の繋がれている
牢獄の前に階級の高そうな将校が従卒を伴ってあらわれた。
こいつが銃殺を指揮するやつなのか?と思っているとその将校が何事かを彼に向って
話し始めた。連れの従卒が通訳する。

「昨日は間違って将校である貴殿に一般兵卒の食事を出してしまった。
決して捕虜虐待のつもりはない。私の顔に免じて看守を許してやってくれないか?」








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